オードリー若林『ナナメの夕暮れ』、思考型人間の人生を垣間見る本

こんな人におすすめ

  • 他人に興味がある人
  • ひねくれてる人
  • 自分の生き方に不安がある人

他人の人生を覗くことは難しい。

意外と、難しい。友人との会話、テレビのドキュメンタリー番組、伝記など、他人の行動を外から眺めることはできるが、心内を含めた人生そのものは、基本的にはその人自身にしか味わえない。

その点、オードリーの若林のエッセイは、彼の人生を生々しく表現している。読んでいると、まるで彼に乗り移ってその人生を垣間見るような体感に襲われる。

 思考の深さと赤裸々さ

芸能人によるエッセイが数ある中で、若林のエッセイの特徴は、その思考の深さと赤裸々な独白だと思っている。

多くのエッセイでは日常の些細な出来事を軽いタッチで書き綴っている。

そのなかで自身の考えを展開したり、人生観を語ったりすることもある。

しかし、そこに人生は見えない。あくまで「この人はこう思うんだ」「こんな体験をしたんだ」という見聞体験にしかならない。その気軽さがよさでもある。

若林のエッセイは、その思考の深さにひとつの芯がある。3ページほどの一編一編はそれぞれ違う話題を扱ってはいるが、それらに連なる思考の核というか、彼を構成している何かが透けて見え、「この人はこれを携えて世界を生きてきたんだな」というのを感じ取れる。

この手の「思考の核」はおそらく誰にでもあるものだ。だけど、それを隠さないところに若林の魅力がある。

生まれた余裕

『社会人大学 人見知り学部 卒業見込』 では、M-1でのブレイクによりいきなり社会に放り出された若林が、世間をナナメにみながら適応していく過程がつづられている。

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その内容はほんとうに切実で、真剣に悩んで、真剣に社会と戦う過程を体感できる。様々な不条理に出会ったり、非常識な自分に気づいたり、これらを自らの思考の核に基づいて行っていた。

そして続編の『ナナメの夕暮れ』でもその核は変わらない。知らないことを徹底的に考え、学び、疑問視し、納得してみる。

しかし本書が前作と違うのは、「余裕」である。

前作ではその思考の奥に芸能界にもまれる青年の「不安」が常に感じられた。読んでいるこちらまで心が渦巻く思いだった。

『ナナメの夕暮れ』では、社会にも慣れ、立場も変わってきた若林が文を書いている。眼は同じでも、その眼で見たものを受け止める心が違う。余裕が生まれている。

この2冊を通じて、僕らはオードリー若林の人生を体験できる。20代から30代にかけての人間の変化、成長を感じ取れる。

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 「世界が変わらない」衝撃

確か『社会人大学~』でも『ナナメの~』でも書かれていたエピソードで、僕が好きなものがある。

若林が20代前半のころ、付き合っていた彼女にふられたとき、あまりのショックで何も手につかず、「俺が振られたのに何で世界はいつも通りなんだ」と絶望したというエピソードだ。

僕はこれに似た心境になったことがある。

就職活動で、面接を受けた会社の近くの橋を渡っていた。

あまりの疲労と、面接官にヘコヘコする自分のばかばかしさに、手に持っていたリクルートバッグを橋の下の川に投げ捨てようか、と思い立った。

そうすれば世界の何かが壊れて、今の状況が変わるかもしれない、と思った。

もちろん結局投げ捨てることはせず、そのかばんを両手に抱えて電車に揺られてそのまま帰ったわけだけど、そこで思いとどまったのは単純に冷静になったからで、「俺がトチ狂ってかばん投げても、変わるのは自分だけで世界はいつも通り回るだけだよな」ということに気づいただけだった。

この若林のエピソードも、その時に同時に思い出した。

「同じ思いを持ってる人がいるんだ」と思った。

そしてその人はナナメの目線に飽きて、自分の人生を楽に過ごしている。

楽に過ごしている、とは言いすぎというか失礼な決めつけだけど、少なくとも『社会人大学~』のころよりはずっと楽に見える。

彼の生き方を体感して、自分も大丈夫かな、と何となく思えた。

単なる芸人エッセイという評価に終わらせたくない、必要な本です。

ちなみに『ナナメの夕暮れ』の「あとがき」はマジで名文なのでほんとに呼んでほしいと思ってます。